アーマードコア6 のアクションの質と、否定の許容範囲について

アーマードコア6のアクションの挙動が前作のアーマードコアに似て無くて良かったと思う、やっぱりアーマードコアが
生き残るには変わらないといけなくてアーマードコア6のような慣性が聞いた新しい挙動が相応しい、昔のままのほうが危なかったと思う。
旋回性も視点操作など違ったものになり、様々なストレスを撤廃した操作性、それでも速度的なものは抑えて反応しやすくした感じ、新しいアーマードコアだと思う

とあるアスリートやらが努力できない人を見下すのは、それは否定と思ってないのだろうか?
家電の操作で早炊きと普通炊きがあって普通炊きをするやつは愚かというのは腹が立たないような感覚で、努力できないなら努力できるようになればいいやんと今のその人を否定する事をなんの罪悪感もない、ある程度本気を出したら後は、少しずつ良くなる感じだが、その人等はボタンを押せば良いように簡単に変われるとしているのかもしれない。左のボタンではなくて右のボタン押せよとかの容易いほどの感覚であるのかも、限界値も簡単に上昇して直ぐに追いつくイメージ、だからできない人に強く当たる、できるのにやらない場合腹が立つもので、変わる又は限界値超えるのが誰でもできる簡単なことなのかもしれない。それならば努力できない人を見下すのは悪くないと思える。学習的無力感に少し成っているために変われると思えないんですよね、だから全否定に聞こえてしまう、事実は変われるのか、それとも自分の言うように少しずつ変わるのかどうなんだろうか?
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